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2021.5.14

新規就農者は「ご縁」を大切に!

移住先の千葉県館山市で初めて農業を志したRYOさんが現在の「RYO’S FARM」を立ち上げるまでには、様々な出会いとご縁がありました。今回は、RYOさんが師匠と仰ぐ農家さん、地区の世話役の方、そしてRYO’S FARMのハウスのオーナーさんに実際にお話を伺い、現在のRYO’S FARMに到るまでの軌跡を辿ります。

田舎の農家のオヤジに「ブランド論」を語られ、衝撃を受ける

まずはRYOさんが師匠と仰ぐ森宅さんです。

「もし森宅さんのところで修行していなかったら、今のRYO’SFARMはないかもしれません。自分が今やっているスタイルは、森宅さんを見習っているだけです。」とRYOさんは語ります。森宅さんは13年前に花き農家からマンゴー農家に転身、館山で初めてマンゴー栽培を成功させたという、熱帯果樹栽培のパイオニア。森宅さんに、なぜ館山でマンゴーを?と伺ったところ、「他の人が作らないようなもの、自分が作ったものがブランドになるようなものを作りたかったんだよね。それにマンゴーはうまいじゃん!」とのこと。自分が農業でやりたいと思っていたことを既に実現している人に出会い、RYOさんは衝撃を受けます。

ところが森宅さんは、農業研修生を受け入れたことはありませんでした。あるとき市の職員から「熱帯果樹をやりたい若者がいるので引き受けてもらえませんか?」という打診を受け、森宅さんはこう答えます。「私には若手を育てる自信はありません…!」今までにもマンゴー栽培をしたいという人はちょくちょく来たものの、大概は物は試し程度の覚悟の人が多く、最初に4〜5本育ててみて、うまくいったら広げようかなという魂胆が透けて見えたそう。そんな人たちに森宅さんは、「そんな気持ちだったら止めたほうがいいよ」と言って聞かせるそうです。ではなぜRYOさんを受け入れることにしたのか?と伺ったら、「本気でやろうとしてるかどうかは、話してみりゃわかるじゃん!?」とのこと。サラリーマンを辞めて、熱帯果樹をやりたくて館山に移住したRYOさんの熱意に共感し、「じゃあ一緒にやろう!」と手を差し伸べます。

農業は目で見て、頭で判断。共に学ぶ関係をいかに築くか

森宅さん曰く、「農業は目で見て、頭で判断する仕事。おれがやることをどれだけ見て、何を学び、どう行動するかだと思ってRYOくんに接したよ。RYOくんはやる気があって、素直で、覚えが早かった。」とのこと。一方でRYOさんは、「森宅さんに否定されたり、農業はそんなに甘いもんじゃない、といったようなことを言われたことは記憶にないですね。自由にやらせてもらえました。」と語ります。

森宅さんとRYOさんとの関係は、農家として新たな人間関係を構築する上で、「教える、教えられる」の関係ではなく、「共に学ぶ」関係を築くことがいかに大切かを物語っています。

「森宅さんからは今自分がやっている農業のほとんど全てを学びました」と語るRYOさん。葉っぱや新芽の見方、水のやり方にはじまり、ハウスをきれいに整頓することなど、数々の薫陶(くんとう)を受けます。

それから約2年が経過し、森宅さんから独立する際、RYOさんは悩みます。師匠と同じマンゴーにするか、パッションフルーツにするか…。そのとき、「パッションフルーツをやればいいじゃないか」と背中を押してくれたのは森宅さんだったそうです。「だってパッションフルーツの方が、マンゴーより稼げるよ。だって年2回収穫できるからね。」と(笑)。

地区の世話役に疑いの目を向けられる

次は地区の世話役、景山さんとの出会いです。森宅さんのところで修行を終え、独立を果たすべく、まずは家と畑を探し。RYOさんは不動産屋に頼らず、軽トラで空き家探しをはじめます。これはと思う家を探し当て、「貸してくれませんか?」と尋ね回る日々。そして探し当てたところが現在の住処です。

ある日引越しの挨拶のため、地区の区長の家を尋ねます。その区長のお父様が景山さんでした。

会って早々、RYOさんが早稲田大を出て脱サラして農家をやると聞いた景山さんは、「あいつ、何しに来たのかね?」と思ったそうです(苦笑)。そしてRYOさんにこうおっしゃったそうです。「農業なんてやるもんじゃない、厳しいよ。」当時景山さんは、きっとすぐに飽きて東京に帰るんじゃないかと思っていたそう。

地区での人との出会いとご縁なくして新規就農は成り立たない

RYOさんは景山さんと知り合ってからしばらくは、週に3日くらい、景山さんのところにお茶を飲みに行って、一緒に山に木を切りに行ったり、海にワカメを取りに行ったり、いろいろ行動を共にさせてもらっていたそうです。「景山さんに本当に信頼してもらっていると感じるようになったのは、最近になってですね。出会ってから3年くらいかかってます。当時、景山さんとは少なくとも週一くらいで会話して、腰を据えてやっているという姿を見せ続けるようにしていました。地域おこし協力隊だったこともあり、役所のバックアップはありましたが、結局日々の暮らしは地区単位なので、自分が所属する地区の方々との出会いと関係構築が、農業をやっていくうえでとても重要だと思っています。自分は景山さんと出会えて本当に幸運でした。」

「油屋さん」が繋いだご縁

地区の世話役である景山さんには、地区の情報(誰々がどんな作物を作ってる、誰が高齢化で畑をやめるなど)が常に入ってきます。現在のRYO’S FARMのハウスも、そんな景山さんに入ったある情報が起点となりました。

景山さんもハウスで花き栽培をし、地区の花組合に所属していました。あるとき、景山さんのところに出入りしている油屋さんから「高梨さんがそろそろハウスやめたがってるみたいです。誰かハウスやりたい人はいませんかね?」と、情報が入ります。

(温暖な館山であっても冬場はハウス内の暖房が不可欠なんだそうです。その暖房の燃料として油が必要なため、地域に必ず「油屋さん」なる商売が存在するそうです。)

そして景山さんはすぐに高梨さんにRYOさんを紹介「だって田舎で新規就農者が一人で畑を貸してくれって言っても、貸してくれるもんじゃないよ!」と、影山さんは語ります。

ハウスをやめようと思っていた農家から渡りに船の申し出を受ける

現在のRYO’SFARMのハウスのオーナーである高梨さんは、なんと景山さんと同じ花組合に所属し、高梨さんはカーネーション、景山さんはフリージアを栽培していました。高梨さんはご主人とカーネーションの栽培を手広くやっていましたが、ご主人が亡くなったことをきっかけにそろそろやめようか…でもやめるとなるとハウスを壊して更地にするにもお金が掛かるし…と悩んでいたところにRYOさんを紹介されます。

「やめてからしばらく経過した後のハウスだと、痛んだり、雑草が生い茂ったりして大変だったはずです。高梨さんのハウスを居抜きで借りられたことは幸運でした。」

高梨さんに「丹精込めて育てていたカーネーションのハウスがパッションフルーツにになることに抵抗はなかったですか?」と伺ったところ、「全然抵抗はなかったですよ。もう疲れちゃってたので、後を引き継いでくれる人がいて本当に助かりました。」とのこと。また、RYOさんが高梨さんに「どこぞの若造が突然来て、なぜ貸してくれたんですか?」と聞いたところ、高梨さんは「RYOさんは団地園芸で熱帯果樹の農業試験をやっていたと言うし、本気で農業をやろうという気概が見られたのよ。景山さんからも熱心な人だと聞いていたしね。」とおっしゃいました。

ちなみに高梨さん、RYOさんにハウスを貸している今でも、台風が来た夜などはハウスのことが心配で眠れないそうです。それだけ大切にしてきたハウスをRYOさんが引き継いだことは、高梨さんにとっても大きな喜びだったようで、にっこり笑って「これからもがんばって素晴らしいパッションフルーツをいっぱい育てて欲しい」とおっしゃっていました。そんな高梨さんを、RYOさんは「お母さん」と呼んでいます。

現在のRYO’SFARMがあるのは、師匠である森宅さん、そして景山さん、高梨さんなど地区のサポーターの皆さんのお陰なのです。

<RYO’sLessonsLearned>

1.理屈より熱意

2.師匠を探せ

3.農業は目で見て、頭で判断する仕事

4.地域での日々の暮らしが今をつくる

5.出会いとご縁を大切に

□講師プロフィール

梁 寛樹 (千葉県館山市/RYO’S FARM

1985年、東京都杉並区生まれ。中学高校は早稲田実業でラグビー漬けの日々を過ごす。早稲田大学国際教養学部卒業後、住宅設備機器の製造メーカーに就職。週末は館山で趣味のサーフィンを楽しんだり、区民農園で野菜を育てたり。この頃から少しずつ農的暮らしに興味を持ち始める。WWOOFを利用して小笠原諸島の父島で農業研修を体験した後、26歳の時に一念発起し、退職金とわずかな貯金を頼りに、館山市に移住。館山市の地域おこし協力隊、農家での研修を経て、26歳で新規就農を果たす。 現在、館山市で15アール(1,500平米)、250本のパッションフルーツを栽培。育苗から栽培・収穫・販売、加工品の製造・加工・販売まで全ての工程だけでなく、ブランディング、PRなども一人でこなす。 プライベートでは3年前に結婚。奥様はまだ東京でバリバリ働いていて、現在は週末婚。波の状況、畑の様子、そして奥様の機嫌を見ながら、日々大好きなサーフィンと農作業に明け暮れる。